2021.11.05
創業のキッカケ・動機(1/3)
始まりは祖父の他界…
ご覧いただきありがとうございます。
今回の投稿記事は、長くなりそうで躊躇していた、「創業のキッカケ・動機」について書いていきます。
※大きく3つの段階がありますので、ブログの投稿も3回に分けます
1回目(全3回)は、約30年前に他界した”祖父との思い出”を振り返ります。
三人きょうだいの末っ子の私は、家族に甘やかされて幼少期を過ごしました。
同居をしていた祖父母には、「最後の孫(末孫)」だったこともあってか、とても可愛がられ、一緒に過ごす時間もたくさんありました。
そのため、物心がついた頃から現在に至るまでも、私は祖父母が大好きです。
祖父との思い出
祖父は幼少期の私を可愛がり、老人会の集まりやゲートボールの練習などによく連れて行ってくれました。
そのお陰もあって、当時の私には、外で遊び回っていると親しげに話かけてくださる様な、ご年配の友だち(実際は祖父母の友人や知人)がたくさんいました。
祖父は仕事を引退した後、家から徒歩数分の所にある畑で、カボチャや芋類・トウモロコシなどを育てる畑仕事に精を出していました。
農作業に夢中になると、祖父が夕食どきになっても帰ってこない事が度々あり、そんな時は私が畑までひとっ走りし、祖父に帰宅を促す役目を任されたものです。
夕暮れ時で祖父の姿が見えない畑に向かって、「おじいちゃんご飯だよー!」と私が大声で呼びかけると、祖父がヒョコッと顔を出し、腰を伸ばしながら「おー迎えに来たのか!」と応えてくれます。
祖父は後片付けを済ませると、私は収穫した野菜や農具と一緒にリアカーの荷台によく乗せられました。
祖父は口笛を吹いたり・演歌を口ずさみながらそのリアカーを引っ張り、私はガタゴトと揺られながら家路につきます。
今思い返すと、昭和感が濃いシュールな光景だったろうなと笑ってしまいますが、確かにそこには、祖父と私だけの幸せな日常があった様に思います。
祖父が天国へ旅立つ
その祖父は、私が小学校3年生の頃、天国に召されました。
当時の私には、家族が居なくなる…ということがよくわかりませんでした。
葬儀には、親戚がたくさん集まってガヤガヤしているので、「みんなに遊んでもらって何だか楽しいな!」とすら思っていたのを覚えています。
告別式も終わりに近づくと、親族が(出棺時の)お別れの挨拶として、生前の祖父のことを話し出しました。
話が中盤に差し掛かった頃でしょうか、「こうじくん(私)が産まれた時に、○○さん(祖父)はとても喜んで…」という思い出話を耳にすると、私の視界は急にぼやけていきました。
小学生にもなり、いつもどろんこ・わんぱくに過ごす自分が、気づけば人前で泣いていることに、最初はとにかくビックリしました。
「何で涙が出ているんだろう」
「たくさんの人に見られて恥ずかしい」
「早く涙を止めたい!!」
そんなことを思えば思うほど、涙は止まらず出続け、最後は「ワーワー」と大声を出して泣きわめきました。
自分がこれまで経験したことがない大量の涙は、小学生の私の、半袖でむき出しの腕では拭いきれませんでした。
こうして、 祖父の葬儀で大泣きしてしまったことは、真っ黒に日焼けしたスポーツ刈りのサッカー小僧だった当時の私の、黒歴史(恥ずかしい出来事)のとして、深く脳裏に刻まれました。
そのお陰もあってか、30年近くたった今でも鮮明に思い浮かべることができる、祖父に関する大切な思い出の一つとなっています(今となっては良い思い出ですけどね)。
追悼ってなんだろう
祖父の葬儀が終わったあとは、何だか煮え切らない気持ちが胸に残りました。
「おじいちゃんがいない」
「おばあちゃんたちが寂しそう」
「考えるとモヤモヤする」
と言った、不思議な感覚でした。
家族か親族の誰かが「もっと○○しておけば良かった」と嘆くのを聞いて、自分もすごく考えました。
「自分はおじいちゃんに何をしてあげれば良かったのだろう?」と。
悲しくて、寂しい気持ちはもちろんあるのに、小学生の私にはよく理解することが出来ず、もどかしい。
このモヤモヤした気持ちはどうすれば良いんだろう…?そんな感じでした。
そんなことがあり、この頃から、祖母の真似をして仏壇にお線香をあげることが多くなりました。
私がお線香をあげると、「おじいちゃんもご先祖様も喜んでいるよ。いつもあなたを見守っているよ。」と、祖母が嬉しそうに何度も言うので…。
そして、もう一つ!
お線香をあげるついでに、仏壇にお供えされたお菓子をこっそり食べるために…。
次回へ続く・・・
「創業のキッカケ・動機」2回目 キッカケは祖母の他界…